ダイオーズ 大久保真一|ビジネスのヒントは常に現場にある

創業手帳
※このインタビュー内容は2023年03月に行われた取材時点のものです。

不可能に思えることでも、どうやったら実現できるかだけを考える

創業は1969年。オフィスコーヒーサービスなど飲料事業やマットモップやオフィス清掃の環境事業をメインとしたオフィス向けの継続サービスを展開しているダイオーズ、実は米屋としてスタートしたという意外な過去がありました。アメリカでのコーヒーサービス業界では西海岸第1位、全米3位、アジアにも展開。その原点は、1ドル360円時代に果たしたアメリカ、ヨーロッパでのホームステイ生活だと創業者である大久保氏はいいます。

個人で海外に行くのが難しい時代に実現させた海外生活や、ダイオーズの成功の法則について、創業手帳代表の大久保がお話をうかがいました。

大久保真一(おおくぼしんいち)
株式会社ダイオーズ ファウンダー/最高顧問
1941年東京・浅草生まれ。中央大学卒業。在学中、全日本学生写真連盟委員長。広告会社勤務を経て67年より米国と欧州の流通企業で研修。69年に家業の米穀店に入店し有限会社米屋おおくぼを創業。都内の米穀店を組織化し配達スーパー開始。70年クリーンケア事業開始。76年株式会社ダイオーに社名変更。77年日本初のオフィスコーヒーサービス事業を開始。88年には米国へ海外進出。83年株式会社ダイオーズに社名変更。趣味は写真撮影と世界旅行。

インタビュアー 大久保幸世
創業手帳 株式会社 代表取締役
大手ITベンチャー役員で、多くの起業家を見た中で「創業後に困ることが共通している」ことに気づき会社のガイドブック「創業手帳」を考案。現:創業手帳を創業。ユニークなビジネスモデルを成功させた。印刷版は累計200万部、月間のWEB訪問数は起業分野では日本一の100万人を超え、“起業コンシェルジェ“創業手帳アプリの開発や起業無料相談や、内閣府会社設立ワンストップ検討会の常任委員や大学での授業も行っている。毎日創業Tシャツの人としても話題に。 創業手帳 代表取締役 大久保幸世のプロフィールはこちら

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観光で海外に行けなかった時代に個人で実現させた欧米研修

創業手帳大久保:起業された経緯についてお聞かせ願えますか。

大久保:大学を卒業後、広告会社に入って営業やマーケティングを担当していました。ただ学生時代から海外への興味があり、自分の目で海外を見たいという思いから、会社を辞めて1967年から1969年にかけて2年間アメリカやヨーロッパで現地の商売を勉強しました。

創業手帳大久保:当時個人で海外に行くのはかなり難しかったのではないでしょうか。

大久保:そうですね。当時は会社員の初任給が1万円いくかいかないか、また1ドル360円という時代でした。もともと流通に興味があり、学生の頃から全日本学生写真連盟の委員長として全国を飛び回るついでに、ダイエーやイトーヨーカドー、ジャスコの前身となる繁盛店を見に行きました。当時はまだ日本にはチェーン店という概念がなかったんです。

大学を卒業して広告会社に入ると、仕事の関係で海外の成功事例を取り上げた業界誌を見るようになり、海外の流通に興味を持ちました。また、通産省(現・経産省)にも出入りする機会がありました。

当時の通産省は「日本の小売業の近代化を目指す」ということで、年に2回、アメリカやヨーロッパの成功したチェーン店の経営者を日本に呼んでセミナーを開催していました。

そのセミナーには毎回出席し、一番前で話を聞きましたね。そのうちにぜひ直接話をさせていただきたいと講演の後、講師である海外の経営者に時間を取ってもらい、「貴社で研修させてもらえませんか?」と直談判したのです。

当時、観光で海外に行くことはできず、業務ビザが必要だったので、最初のうちはなかなか約束を取り付けることはできませんでしたが、手紙を出すなど地道に努力を重ね、数年後、うちに来てもいいですよと言ってくれるところが見つかったのです。

創業手帳大久保:宿泊するところなど、生活基盤はどうされたのですか。

大久保:お金がなかったので、ホテルに泊まらなくてもいいようにするためにはどうすればいいのかいろいろと調べました。調べているうちに、今で言う交換留学のように、ホームステイをし合うシステムを見つけて入会しました。まずは海外の方が日本に来たら私の家に泊まっていただき、東京を案内するなどして準備をしたのです。

その頃、ハーバード大学にフルブライト奨学生として留学した小田実さんという方が出した『何でも見てやろう』という本を読みました。留学が終わったあとに、無銭旅行に近い形で世界一周した経験をつづった本なのですが、この本に大いに勇気をもらいましたね。

出発準備は進みましたが、結婚して子どもがいましたので、家族には迷惑をかけました。そこで「欧米から帰ってきたら会社を辞め実家を日本一の米屋にする」という約束で妻子を両親に見てもらい、アメリカへ渡る貨物船の船代も出してもらいました。

だから、アメリカ、ヨーロッパにいる間、ずっと「どうしたら日本一にできるか」ということが頭にありました。

創業手帳大久保:アメリカでの生活はいかがでしたか。

大久保:サンフランシスコで船を降りたところにホームステイの受け入れ先の家族の方が「Welcome Mr.OHKUBO」と書かれたボードを持って迎えに来てくれて、アメリカの生活が始まりました。

当時は戦争直後でしたから、戦争に勝ったアメリカはどこか優越感を持っているようなところがありましたね。ただその分「どんどん教えてあげるよ」という気前の良さも感じました。

最初に働いたのは、カリフォルニアのCGCというスーパーの共同仕入れ機構でした。週5日間はお店で働き、残りの2日間は本部の研修や繁盛店を見て回りました。

やはり大きな価値を生み出すためには1店1店では駄目で、どうやってチェーン化、多店舗化するかというのを実際に目で学びました。

米屋の御用聞きと配達というシステムを活かし独自のビジネスへ

創業手帳大久保:日本に帰ってきてからはどうされたのでしょうか。

大久保:帰国後、有限会社米屋おおくぼを立ち上げ、米屋を土台とした「お客様の困りごと解決サービス」を始めました。

米屋を日本一にするには米を売るだけでは成し遂げられないと常々感じていましたので、米屋の御用聞きや配達という機能を活かせば、お客様の困りごとを解決できると考えたのです。

そこで行き着いたのが配達スーパーです。同じ業界の方々に声をかけて、共同仕入れで主に生活必需品を扱う配達スーパーを始めました。重い物やかさばる物などをお宅にお届けすることで、お客様には大変喜ばれましたが、これらの商品はどうしてもスーパーの目玉商品とぶつかってしまい、利益率も低いという課題がありました。

どうやったら利益が上がる仕組みができるだろうと考え、「スーパーで扱っていない説得商品を扱うべきでは?」と思っているときに、ダスキンさんの「化学ぞうきん」と出会いました。

新商品としてお客様に喜んでいただけると思い、加盟してダスキン製品も販売を始めました。配達スーパーのお客様におすすめすると、常日頃大変喜んでいただいていましたので、多くのお客様にお付き合いで契約していただくことができました。

その後、さらに規模を拡大するため対象をオフィスにも展開していき、業務用のマットやモップを扱うようになりました。他に先駆けて企業向けの販路を開拓したことで、全国で約2,000の加盟店の中で全国1位という成績を達成することができました。

創業手帳大久保:配達スーパーで基礎が築かれていたからこそ、ダスキン事業もうまくいったのですね。

大久保:そうですね。当初は利益率が低いサービスではありましたが、それによって信用やお客さんとの接点を得ることができました。私の商売の原点ですね。

創業手帳大久保:ダスキン事業から、どうやって独自のビジネスに転換していかれたのでしょうか。

大久保:ダスキンの事業は、商品を定期的にレンタルをするため、商品をお届けする人が必要ですが、春夏の長期休みなどに大学生に営業のアルバイトをしてもらっていたんです。就職の季節になると、そのアルバイトの方々に「うちの会社で働いてみないか」と口説き、優秀な人材が入ってくるようになりました。

良い人材が集まり、全国2,000店の中で1位にもなりましたので、次のステップとして独自のビジネスを始めようと皆とディスカッションする中、ダイオーズが得意とするのは「オフィスに対する継続的なビジネスだ!」ということで意見が一致しました。

ちょうどその頃、マクドナルドやミスタードーナッツといった海外の外食が日本に進出してきて、若者を中心にハンバーガーを片手にアメリカンコーヒーを飲むのが一つのファッションとして大人気になったのです。

当時の日本のオフィスでは、飲み物としては緑茶またはインスタントコーヒーが主流でしたが、私が行った欧米ではオフィスでレギュラーコーヒーを飲むのが普通でした。ですから日本でも必ずそういう時代が来ると考え、オフィスコーヒーサービスを日本で初めて事業化しスタートさせたのです。

ただ、当時は業務用のコーヒーメーカーが国内になかったので、メーカーに製作を依頼するにも小ロットだと厳しく、かと言って海外から輸入すると高いので苦労しましたね。それでも、これまでにおつきあいのあった全国の同業の仲間たちに声をかけると「ぜひ一緒にやりましょう」と手をあげてくれて、事業を進めることが出来ました。

オフィスコーヒーサービスも、ダスキン事業で築いたネットワークが活きて契約してくださる企業が数多く出来ました。ゼロからオフィスコーヒー事業をやっていたら成功していなかったと思います。配達スーパーからダスキン事業のときのように、顧客の信頼が構築されていたことが成功の要因だと思っています。

創業手帳大久保:競争が激しいアメリカのコーヒー業界で、西海岸第1位、全米3位をキープされているのは素晴らしいですね。

大久保一歩一歩、勝ちパターンを積み上げて行くことが大事だと思っています。日本初のオフィスコーヒーサービスで成功事例を作り、10年後にアメリカへの進出を決めたのですが、その10年の間に何度もアメリカに行き、実際に成功している企業を訪ねて、勉強の傍らアメリカでのネットワークも築いていました。

手紙を書いてぜひ見学させてほしいと頼み、実際にお世話になった方には、日本にファーストクラスでご招待して京都や箱根を案内したり、私たちの社内の大会でスピーチをしていただくということをやっていたら、アメリカの業界内でも評判になり手紙を送ったところはほとんどのところでOKをいただけるようになりましたね。

10年が経ち、やっと海外に出るチャンスが巡ってきたと感じ、アメリカで一番成功している会社を買収してカリフォルニアに進出しました。まだ日本企業もほとんどいない時代でした。

うまくいかない可能性は考えない

創業手帳大久保:起業されて今まで、苦労されたことはありますか。

大久保:大変だったことはあまりないですね。基本的にいつも楽しいと思ってここまでやってきました。

現場を見るのが趣味のようなもので、明日からアメリカに行くのもそのためです。現場を見ることが、どういう方向に会社を進めるかのヒントになります。

創業手帳大久保:成功の法則はどこにあるのでしょう。

大久保:まず新しいことは自分でやってみるということですね。ゼロからノウハウを作り、どうやったら成功するかの検証をするのが私の仕事と思って取り組んできました。

やってみるということが大事で、試行錯誤しながらどうやったら成功するのかを常に考えていました。うまくいかない可能性は考えません。今でもそうです。

ダスキン事業を始めたときは、私自身が第一線に立ち、配達の効率をよくするために浅草1丁目だけに地区を限定し、売り掛けではなくキャッシュで代金をいただけるところしか契約しない、ということを徹底しました。

お金がなかったので自分で営業したり配達したり、密度を濃くして勝てるところをちゃんと押さえたことが勝因だったと思いますね。

日本でオフィスコーヒーサービスを事業化した後、しばらくコーヒーに専念しましたが、軌道に乗った後、日本の事業は幹部社員にまかせて、アメリカ事業の立ち上げは自らが行いました。だからその当時はアメリカに住んで日本に通勤していました。

創業手帳大久保:最後に、読者である起業家へのメッセージをいただけますか。

大久保:新しいことをするにはトップ自らが第一線に立ち、チャレンジするということが大事です。起業するということは、チャレンジの連続でもありますから。
 
例えばゴルフが好きな人は、雨が降ってもゴルフに行きますよね。それと同じように、常にポジティブにチャレンジすることが大切ですね。

お金がないけれどアメリカに行きたいならホームステイを探すとか、目的を叶えるための手段を見つける事が大事。自分の夢がどうやったら実現するのかを本気で考え、調べ、実行しましょう。

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(取材協力: 株式会社ダイオーズ ファウンダー/最高顧問 大久保真一
(編集: 創業手帳編集部)



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