いきなり!ステーキ社長の「壁を乗り越える力」 一瀬邦夫氏インタビュー(前編)

飲食開業手帳
※このインタビュー内容は2019年10月に行われた取材時点のものです。

創業手帳代表の大久保が、一瀬邦夫氏の創業エピソードを聞きました

(2019/10/29更新)

「いきなり!ステーキ」や、「ペッパーランチ」を運営するペッパーフードサービス。アメリカでは苦戦するなどメディアを賑わすことが多いものの、世界で1000店舗以上を展開。2018年11月「レストランにて、24時間で販売されたビーフステーキ最多食数」に挑戦し、ギネス記録にも載るなど、話題を集め続けています。

同社の名物社長である一瀬邦夫代表は、親一人子一人の家庭からコックを志し、名のあるホテルでの修行を経て、個人経営のステーキ店「キッチンくに」から事業をスタートしました。今でこそ世界的企業となったペッパーフードサービスですが、これまでにいつ会社が倒れてもおかしくない数々のピンチに見舞われてきたといいます。

一流の料理人であり、多くの壁を乗り超えた日本屈指の経営者でもある一瀬氏が、創業直後の起業家向けに「壁の乗り越え方」を語ってくれました。

一瀬 邦夫(いちのせ くにお)/株式会社ペッパーフードサービス代表取締役CEO
高校卒業後、東京赤坂の山王ホテルに入社。9年在籍後独立し、1970年に「キッチンくに」を開店。1985年に、資本金500万円で有限会社くにを設立。浅草周辺に4店舗の直営店を展開する。
1994年に、長年の構想から低価格ステーキ店「ペッパーランチ」の展開をスタート。1995年に、株式会社に組織変更すると共に、社名を株式会社ペッパーフードサービスに変更。

インタビュアー 大久保幸世/創業手帳株式会社 代表取締役
大手ITベンチャー役員で、多くの起業家を見た中で「創業後に困ることが共通している」ことに気づき会社のガイドブック「創業手帳」を考案。現:創業手帳を創業。ユニークなビジネスモデルを成功させた。印刷版は累計100万部、月間のWEB訪問数は起業分野では日本一の100万人を超え、“起業コンシェルジェ“創業手帳アプリの開発や起業無料相談や、内閣府会社設立ワンストップ検討会の常任委員や大学での授業も行っている。毎日創業Tシャツの人としても話題に。

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社員が辞めるのが怖い。「弱い社長」からの脱皮

大久保:経営者につきものの「人の問題」をどのように超えてきましたか

一瀬:一番つらいのは、人が辞めてしまうことですよね。

独立した最初のうちは、従業員がなかなか定着しなくて悩みました。そんな時、甥を店で雇うことになりました。私は職人気質で、自分が良い腕だと信じていたので、甥に対しての指導もきつい言い方をしていました。しかし、甥は辞めずに働いてくれて、さらにいつも笑顔で愛想が良かったので、お客さんにも従業員にも愛されました。結果として店に活気が出て、従業員の定着率もあがりました。ものすごくありがたかったですね。

経営をする中で、従業員が離れていくことが怖くて、逆に社員を叱れなくなったときもありました。「叱ると人が離れていくんじゃないか」と思っていたのです。社員とちゃんと向き合うことを避けて、「弱い社長」になっていました。

転機は、いよいよ資金がなくて倒産する、という状況まで追い込まれたタイミングでした。経理の人から、「今月いくら足りなくて、従業員に給料が払えない」と言われ、お金もなくどうしようもない状況が続いた時があり、1年以上手を打てませんでした。今思うと、強迫観念で身動きが取れなくなっていたのだと思います。

そして、ついに資金が底をつくタイミングがやってきて、顧問税理士からも「もう終わりですよ社長」と言われました。そこで、「従業員の給料を15%カットする」という決断をしました。

その後、店長会議で、経営が立ち行かないから給料を下げさせてくれ、と伝えました。当然、従業員からは反発が出ます。「もうついて行けません」という声がいくつもあがりました。しかしこの時、私はすでに腹を括っていたので、

今辞めるのも、数ヶ月後に会社の資金が無くなって辞めるのも同じ。だからここで辞めていってくれても構わない。でも、どうか一緒についてきてくれないか

と伝えました。厳しい状況に、真正面から向き合ったのです。結局、多くの社員は残ってくれました。そこからなんと3か月もたたずに、業績が急激に上がって回復することができました。

それまで、自分自身が形は社長でオーナーでしたが、覚悟を持って経営していなかった。だから実質、経営者が不在でした。社員は苦しかったり、叱られると辞めてしまうのではないかと恐れていましたが、違うのです。社員が辞めるのは、優柔不断な社長のもとにいたくないからなのです

このことがきっかけで、私は弱い社長から強い覚悟を持った社長に生まれ変わりました。人は信念を持って道を定めることができる社長についてきます。人の問題で悩んでいる創業手帳の読者の皆さんも、自信を持って社員と向き合うと良いでしょう

格言

悩める社長へ。人は、信念と自信を持った経営者についてくる。

「従業員に夢と希望を与える」ために多店舗化へ

大久保:なぜ、多店舗化で事業を拡大しようと思ったのでしょうか

一瀬:「キッチンくに」は小さい店から初めて、9年後に4階建てのビルになり、飲食店としては、そこそこの成功を収めました。経済的にも何も問題もない状況が、34、5歳くらいまでつづきました。

それでも、社員が辞めていくことはしょっちゅうあり、なぜだろうと悩んでいました。たどり着いたのは、「社長に大きな夢と希望がないからだ」、ということでした。

社員にも夢や希望があります。社員が将来に不安なく働けるくらい会社を大きくしなければ、定着してくれないのです。従業員の安泰が、結果的に自分の安泰につながるのだ、ということに気が付きました。こうして多店舗経営の道を選びました。

大久保:多店舗化にあたってどのようなハードルがありましたか

一瀬:いざ多店舗化しようと考えても、コックという職人はなかなか早く育つものではないし、急には拡大できません。一人の力で店を大きくしていくには限界があります。またしても壁にぶつかりました。ここから、ペッパーランチの仕組みをひらめいたのです。ステーキの業界では珍しく、マニュアルを作って、自動化の設備を整えることで、コックレスの仕組みを作ることにチャレンジしました

窮すれば通ず、ですね。しかし、世の中にないものは反対されます。「そんなやり方ではダメだ」と散々言われました。

そんな中、1994年にペッパーランチの一号店を大船にオープンしたところ、たくさんのお客さんが店におしかけ、大成功を収めました

最初の成功からの拡大に気をつけろ

大久保:誰もやったことがない試みで、華々しいスタートを切ったのですね。その後は順風満帆だったのでしょうか

一瀬:最初の成功で舞い上がってしまっていましたが、飲食店はそんなに甘くありません。一号店の成功で「これはいける!」となり、その後1年で新店を10店舗オープンし、社員をどんどん採用しては新たな店に配属したのですが、結果はなんと全店舗が大赤字。倒産寸前でした

この時、特に難しいと感じたのが、多店舗化による人の育成や意識の団結です。そこで、決起大会を開き、「どうしても辞めてほしくない、倒産もさせたくない」ということを従業員に訴えたところ、業績がだんだん回復していきました。

そこから、今まで続いている社内報の作成もはじめました。私自身が文章を書いて伝えることで、従業員に自分の信念を共有し、会社として団結することの大事さを今でも感じています。

谷の先には、さらに大きな山が待っている

大久保:その他に、どのような壁がありましたか

一瀬:狂牛病が問題になった時も大変でした。自分や社員が悪いわけではないが、社会全体がパニックになってしまっている。このときも、従業員へメッセージを書き、店舗に貼って共有したところ、メディアや、農林水産大臣に取り上げていただくなど話題になり、世間の理解を得ることができたのではないかと思います。

他にも、心斎橋で店員が大変な事件を起こしたり、O157問題がでたり、ゴーイング・コンサーン(経営破綻の危機があることを決算書で報告すること)でにっちもさっちもいかなくなった、など数々の困難がありました。

しかし、人生「山あれば谷あり」とはよく言ったもので、本当に大変な時は、いつでも誰かが手を差し伸べてくれました。ゴーイング・コンサーンで金融機関から融資が受けられなくなった時、仲間が出資してくれたこともありました。

そして、一度谷を超えると次に登る山は前の山より高くなっているから不思議です。この繰り返しで、ペッパーフードサービスは成長してきました。

後編予告

経営者としての壁の乗り越え方について語ってくれた一瀬社長。後編では、77歳にしてなおエネルギッシュに経営の最前線に立ち続ける一瀬社長の、経営者として成功する秘訣に迫ります。

後編
いきなり!ステーキ社長の「壁を乗り越える力」 一瀬邦夫氏インタビュー(後編)



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