Tably 及川 卓也|グローバルIT企業のマネジメント職を経て、50代でフリーランスから起業(前編)
創業手帳代表の大久保がTably株式会社の及川卓也代表取締役に話を聞きました
(2019/06/10更新)
グローバルIT企業の大規模な開発、スタートアップを経て起業し、大企業の顧問、スタートアップの技術面の支援などを行っている及川卓也氏。発信する情報にはファンが多く、過去にブログが書籍化されたこともあります。
今、及川氏が手がけるのはテクノロジー系のサービスでつまずきやすい、「技術開発とエンジニアの組織づくり」。及川氏がこれまでどのようなキャリアを経て、現在の事業を展開することになったのか。創業手帳代表の大久保が聞きました。
Tably株式会社 代表取締役
早稲田大学理工学部を卒業後、外資系コンピューターメーカーに就職。営業サポート、ソフトウエア開発、研究開発に従事し、その後、別の外資系企業にてOSの開発に携わる。その後、3社目となる外資系企業にてプロダクトマネージャーとエンジニアリングマネージャーとして勤務後、スタートアップを経て、独立。2019年1月、テクノロジーにより企業や社会の変革を支援するTably株式会社を設立。
創業手帳 株式会社 代表取締役
大手ITベンチャー役員で、多くの起業家を見た中で「創業後に困ることが共通している」ことに気づき会社のガイドブック「創業手帳」を考案。現:創業手帳を創業。ユニークなビジネスモデルを成功させた。印刷版は累計100万部、月間のWEB訪問数は起業分野では日本一の100万人を超え、“起業コンシェルジェ“創業手帳アプリの開発や起業無料相談や、内閣府会社設立ワンストップ検討会の常任委員や大学での授業も行っている。毎日創業Tシャツの人としても話題に。
世界第2位のDECで、パーソナル・コンピューターの魅力に取り憑かれる
及川:新卒で社会人になるときに、当時世界第2位のコンピューターメーカーであったDEC (Digital Equipment Corporation) に入社しました。
DECを選んだのは、成長が著しいということと、1番の会社(この当時はIBMですが)に入っても面白くないと思ったからです。また、日本企業も会社訪問はしていたのですが、どうも集団行動が苦手で、日本の大企業には合わないのではないかと思いました。結果的に、このDECという会社で好きにさせてもらったのがその後のキャリアに活きています。
一番ではない会社に行きたかった。
結果的に、その経験は後のキャリアに活きた。
DECは、今の若い人は知らない人も多いのですが、コンピューターの歴史上では有名な会社で、UNIXやC言語、Ethernet、X Windowなどの技術が生み出されたマシンを作っていました。そんな中私は、当時は海の物とも山の物ともつかぬパーソナルコンピューターを担当することになりました。Windowsの前のMS-DOSやOS/2などと、自社の製品を連携させる技術を担当する中で、パーソナルコンピューターの魅力に取り憑かれます。DECの経営が悪化し、何度も早期退職プログラムが展開され、一度は転職も考えましたが、上司からの引き止めもあり、思いとどまりました。
その時、上司が引き止めに使った材料が、米国マイクロソフト本社での、次世代Windowsの開発プロジェクトへの参画でした。次世代Windowsは、Windows NTと呼ばれるもので、今のWindowsの基となったものです。当時、恐らく世界でも数百人しかいなかったと思われる、この将来が期待される次世代Windowsのソースコードを触ることのできる1人になる。これは何にも代えがたい魅力でした。
結果、1年ほど米国マイクロソフト本社で勤務しましたが、ここでの世界のトップクラスのエンジニアと一緒に勤務した経験がその後のキャリアに大きく活きています。
Windowsの原型のソースコードに触れる世界で数百人しかいない中の一人になる。
何にも代えがたい魅力だった。
DECはその後3年ほどいたのですが、経営悪化は止まることなく、その場に留まることへの疑問と、挑むことへの渇望が抑えきれなくなり、マイクロソフト日本法人に転職します。当時、Windowsのユーザーグループで活動しており、マイクロソフトを外からいろいろと支える活動をしていたのですが、「どうせなら中からWindowsを良くしていこう」と思いました。
当時は、すでにWindows 95がリリースされており、日本でもオフィスに行けば、1人1台のパーソナルコンピューターが用意されるようになり始めていました。部門サーバーとして、共有フォルダやプリンターのためにWindowsのサーバーも導入されていました。しかし、たとえば、基幹業務や金融機関のシステムなど、企業の運営に必須となるシステムは、まだWindowsには任せられないと思われていました。
私はそんな状況下でマイクロソフトに転職し、Windows 2000という、現代のWindowsの基礎を築いた製品を担当しました。その後、2000年に入ってからは、企業の基幹業務にもWindowsが使われるようになっていきます。マイクロソフトには合計9年務め、サーバーやエンタープライズを中心として、時には組み込みやクライアントまで担当し、最後はWindows Vistaの日本語版と韓国語版の開発を統括しました。
その後、グーグルに転職し、Web検索やニュースなどのプロダクトマネジメントを担当した後、Chromeの開発マネージャーを務めました。その後、ソフトウェア開発のIncrementsにて、プログラマのための情報共有サービス「Qiita」の開発・運営に携わった後、独立しました。
そして、今年の1月にTably(テーブリー)という会社を興しました。
セールスから製品開発まで、様々なキャリアが一つにつながった
及川:キャリアという点では、技術系という枠はありますが、その中で結構いろんな職種を経験してきています。最初に入ったDECという会社はAIでも有名な会社でした。当時はちょうど第2次AIブームの時代で、DECもAI技術センターという部署を作り、KE (Knowledge Engineer) という職種のエンジニアを養成していました。私は入社前から情報処理技術者資格を有するなど、すでにプログラミングには自信があったため、できれば、このAI技術センター、そうでなくてもソフトウェア開発を行う部署を希望していました。
ところが、実際に配属されたのは営業サポートの部署でした。営業マンに同行して、客先に製品説明やデモを行うプリセールスエンジニアです。配属先が発表されたときは、「なんで私が」と思ったのですが、やってみると面白い。すぐに顧客への説明やプレゼンなどがうまくなりました。
この経験は未だに活きています。私は技術をわかりやすく人に説明するのが上手いと言われることが多いのですが、そのルーツはこの新卒時の配属先から来ているところも大きいと思います。
DECではその後、顧客向けのデモ用のシステムがうけたこともあり、その製品化のために製品開発部署へ、さらに、研究開発部署へと異動しました。DECにいた9年のうち、最初の6年ほどでこの3つの部署を経験しました。研究開発に移る前後に、キーボードの開発を担当したのですが、この経験はマイクロソフトでリモートデスクトップの原型となるTerminal Serverという製品の開発を担当したときや、グーグルでChromebookの開発を担当したときに活きてきました。Chromebookの日本語版キーボードの配列は私が考えたんです。
スティーブジョブズがスタンフォード大学の卒業式典で行ったスピーチは有名ですが、その中に出てくる「コネクティングドッツ(点と点をつなげ)※」 をまさに体験しています。後で知ったのですが、このコネクティングドッツという考えは「慎重に立てた計画以上に、予想外の出来事や偶然の出来事がキャリアに影響を与える」という考えに基づくもので、このような偶発性を引き起こすには、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心が必要とされています。小さいころから人とは少し違うところがあったように思う私ですが、偶然にもこの要素はすべて持っていたように思います。
※様々な経験が、最終的に一つの線のようにつながっていくという考え方
人生の経験の点と点がつながる瞬間がある。
予想外の出来事や偶然の出来事がキャリアに影響を与える。
偶発性は、好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心が必要。
兼業で行なっていたアドバイザリー業が法人成りした
及川:技術の活用で事業創造や推進を考える企業に次の3つの内容で支援を行っています。まず1つ目が純粋な技術支援。技術選定やアーキテクチャを一緒に考えます。わかりやすい例で言うと、パブリッククラウドベンダーのうち、どのベンダーを採用するべきかとか、IoTデバイスからの通信技術は何を使えば良いのか、というような内容に対してアドバイスを行います。2つ目がプロダクト戦略で使われるプロダクトを作るためのアイディエーションからプロダクトの意志決定など、プロダクトマネジメントと呼ばれる領域での支援です。そして、最後の3つ目が、今まで話した2つを支える組織戦略です。エンジニアやプロダクトマネージャーの採用から育成、評価など、強い開発組織を作るためのアドバイスを行っています。
ところで、これだけのキャリアがあれば、好条件でそのまま会社に務めるという選択肢もあったと思いますが、あえて起業を選んだ理由に興味があります。起業までの経緯を教えてもらえますか?
及川:Increments時代に、兼業で数社のアドバイザーを務めていたのですが、だんだんとそちらの割合が大きくなり、重要な形で関わるようになっていきました。そこで、兼業の形ではなく、一度、完全にアドバイザリー業務に振り切ってみて、深く、そして多くの会社に関わってみたらどうなるかと考えたことがきっかけです。ですので、独立した最初の頃はひたすら仕事していました。
依頼されたら、基本は断らずに。そのように、幅広く、多くの会社のお手伝いをする中で、多くの会社が抱える共通の課題も見えてきましたし、私なりの解も見えてきました。アドバイスの引き出しが多く用意されて、その中から各社の状況に合わせたものを適宜組み合わせ、そしてさらにその場で一緒に最善のものを考えていく、というプロセスが確立されたのです。
その後、個人事業主だったものを、いわゆる法人成りする形で起業しました。
最初は仕事を断らず幅広く対応していた。
次第に共通解が見え、プロセスが確立された。
(取材協力:
Tably株式会社/及川卓也(おいかわ たくや))
(編集: 創業手帳編集部)