ネオキャリア 西澤 亮一|4,000万円の赤字、リーマンショック。天国と地獄を経験した起業家が語る「逆境を乗り越える秘訣」
ネオキャリア 代表取締役 西澤亮一氏インタビュー(前編)
(2018/12/26更新)
2000年に創業した株式会社ネオキャリア。人材関連事業を中心に、ヘルスケアやアジア各国の人材紹介なども手がけており、現在、年間売り上げは520億円超。従業員数はグループ会社を含めると国内外に3,000人以上を抱えるメガベンチャー企業として知られています。
そのトップにいるのが、代表取締役の西澤 亮一氏。
経営者一家の中で育ち、早くから起業家精神を培ってきた西澤氏ですが、起業早々に抱えた4,000万円の借金や、リーマンショック前後の急激な売り上げ減少により倒産危機を迎えるなど、その道のりは決して平坦ではなかったそうです。
今回は、そんな経営の酸いも甘いも経験してきた西澤氏に、起業するに至った経緯や起業家として持つべき考えや姿勢について、創業手帳 代表の大久保が伺いました。
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1978年生まれ。北海道出身。大学を卒業した年の2000年に、中途採用支援を行う「株式会社ネオキャリア」を設立し、取締役に就任する。2002年、代表取締役に就任すると、当時倒産寸前だった会社を立て直すことに成功。持ち前の上昇志向とチャレンジ精神で陣頭指揮を執り、わずか1年半の間に4,000万円の借金を完済し、その後は目覚ましい成長を続ける。現在は「ヒューマンリソース」を中心に、Web広告や自社プラットフォームサービスなどの「ITテクノロジー」を駆使。さらに近年では海外へと事業を拡大し、国内は75拠点、海外は日本以外に9カ国22拠点を持つ。
創業手帳 株式会社 代表取締役
大手ITベンチャー役員で、多くの起業家を見た中で「創業後に困ることが共通している」ことに気づき会社の母子手帳、創業手帳を考案。2014年にビズシード社(現:創業手帳)創業。ユニークなビジネスモデルを成功させ、累計100万部を超える。内閣府会社設立ワンストップ検討会の常任委員や大学、官公庁などでの講義も600回以上行っている。
経営者一家の中で育った少年時代
西澤:もともと、自分のポテンシャルを発揮するためには、興味を持っていることややりたいことにベクトルを向けることが大切だと考えていました。
それを最大限発揮するとなると、自分と全く同じ考え方の企業に就職するか、自分で会社を作るしかありません。その2つどちらかを選ぶのなら、起業してしまったほうがスピーディーに実現ができると思っていましたので結果的には、社会人一年目にして起業しました。
西澤:私の出身地は北海道の田舎で、祖父の代から喫茶店や仕出し弁当屋、食堂、飲食店などを一族で経営していました。父には「なんでもいいから一番になれ」と言われて育ち、父もそれを体現するように、経営者として、またその後は町長という立場で12年間奮闘している姿を見せてくれました。
しかも、高校入学と同時に家を出てからは、生活費に関しては自活させる教育方針でしたので、中学までやっていた空手やサッカーも諦め、バイトに明け暮れました。そんな生活を続けるうち、私は次第にお金を稼ぐことに興味を持ち始め、「同世代のビジネスパーソンの中でトップになる」という目標を持つようになりました。そのためには自分の力を最大限に発揮できる環境にいなければならないことを学んだのです。
20代での起業、そして試練が待っていた
西澤:最初は、私を含めて9人で会社をスタートさせました。代表には学生時代から経営者を目指していたメンバーを立てて、私は取締役に就任しました。なぜ私が代表にならなかったかと言うと、「政治家と経営者は割に合わないからやめておけ」という父の助言からでした(笑)。
しかし、結果から言うと設立から一回たりとも黒字になることなく損失が膨らみ続け、1年3ヶ月後には役員の給与がストップ。代表に財務状況を聞くと倒産寸前の状態になっていました。株主に相談しに行くと、当然のことながら「解散するなら責任もってお金を返せ」と言われました。
もちろん、2年目の私達がお金を返せるわけもありません。
さらに、そんな状況で最初の代表を含め、メンバーも何人か辞めてしまいました。すると、その当時売上げの半分以上を稼いでいた私が、残ったメンバーの後押しもあって代表に就任せざるを得なくなりました。私の代表としての最初の仕事は、株主に「一生かけて借金を返します」と宣言書に一筆記すことでした。
西澤:まず会社を再出発させるために株主に出資を、銀行には融資をお願いしに行きました。しかし、当時は今ほどお金を借りるハードルが低くなかったので、ビジネスモデルが秀逸なスタートアップでもないただの潰れそうな中小企業では、どこからも資金を調達することができませんでした。
それから、1年間ほど給与が払えない状況になりました。創業メンバーも会社がこんな状態になったことに責任を感じていたようで、「会社を立て直すまでは給与を我慢する」と言ってついてきてくれました。
もちろん経営する上で、こんな悪い状況に陥らないことに越したことはないですが、誰でも少なからずは苦い経験をするものだと思います。
でも、真価が問われるのはそういう時で、苦しければ苦しい時ほど経費削減を徹底する努力や仲間との強い絆を持って事業を進めることが本当に大切なんだと実感できました。そういう死に物狂いの気持ちがあったからこそ、私が就任してから1年半で約4,000万円もの借金を返済することができたのだと思います。
苦しい状況ほど真価が問われる時。徹底した努力と仲間との絆が乗り越える力をくれる
逆境から抜け出すために着手したこと
西澤:目標を明確にし、その目標のために何をどうすべきかを議論しました。「できる・できない」ではなく、「どうするか」という部分に注目しましたね。もはや背水の陣ですから、私たちには悲観的になって止まっている時間などありません。いつもどこかにチャンスの糸は垂れているはずなので、それを見つけて一歩一歩前進することを目指したのです。
それはリーマンショック前後の停滞期においてもそうでした。単月の粗利が1億円を超えていたものが、翌月には2,000万円まで急激に下がったことがあり、このままいけば4ヶ月もすれば倒産してしまう状態に陥りました。その当時「目標を定めない方が良いのではないか」「顧客満足より社員第一にした方が良いのではないか」というような声が社内から聞こえ始め、私自身も経営に自信が持てず迷っていたのです。それと同時に上場も延期になり、社員数も120人ほどで停滞。入れ替わりも激しくなっていました。
こうなると完全に進行方向を見失っている状態で、一刻も早く進路を定めなくてはいけません。この時も私を含め役員や幹部格、部長、マネージャーは給与カット。とにかく生き延びるためにがむしゃらに営業をかけまくり、月60件以上は回りました。
このように、現場に出て常にお客さんの反応や、世の中の動向や変化を肌で感じることで、徐々に自分のやりたいことが改めて明確になっていったのです。
その後はこの2、3年のブレを猛省し、社内の意思統一のために私の考えをまとめた本を、400ページほどにまとめて社内向けに発刊しました。そこにはネオキャリアのステートメント(声明)として「フィロソフィー」「ミッション」「コミットメント」「ビジョン」「ポリシー」「バリュー」という項目を掲げ、それぞれの言葉に対する定義、つまり会社の方針を記載しました。
また、社会は変遷していくのが常ですから、自分の考えもアップデートするために改訂版を出すようにしました。現在は第4版まで出ていて、それを軸に社員一丸となって変化の激しい時代の荒波に立ち向かっています。
現場での変化を肌で感じることで、やりたいことが見えてくる
(取材協力:株式会社ネオキャリア/西澤 亮一)
(編集:創業手帳編集部)