【大河ドラマから学ぶ】北条義時とは?起業家が見習うべき3つのポイント「鎌倉殿の13人」
北条義時の運命を変えた3つの出来事も解説
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で話題の北条義時。三谷幸喜さんが監督、小栗旬さんが主演を務めることでも注目を集めています。しかし、多くの方は、
- 北条義時ってどんな人物なの?
- 北条義時って主役になれるの?
- 北条義時の何がすごいの?
そんな疑問を抱えているのではないでしょうか。
そこで今回は『起業家が北条義時に見習うべき3つのポイント』という視点で解説していきます。
北条義時は、地方豪族の次男に生まれながら、最終的に鎌倉幕府の最高権力者・執権に上り詰めました。
激しすぎる変化に対応していく北条義時の姿は、現代でも参考にできる点がたくさんあります。
この記事を読めば、北条義時の人生からさまざまな教訓を学ぶことができます。
この記事の目次
北条義時とは?
北条義時とは、鎌倉幕府で第二代執権を務めた人物で、源頼朝の天下取りを支えた腹心でもありました。
北条義時は、1163年に伊豆の地方豪族『北条時政』の次男として生まれました。時代は平安時代の末期。源氏が平家に敗れた平治の乱(1160年)が終わり、これから平家全盛の世を迎えるあたりです。
地方豪族の次男に過ぎない北条義時が、どうして源頼朝が開いた鎌倉幕府の最高権力者になれたのでしょうか?
北条義時には、彼の人生を大きく変えた3つの出来事がありました。それは北条義時自身にはコントロールのできない出来事でした。
しかし、その出来事をきっかけに、北条義時は大きく変化していきます。
ここで学ぶべきは、『周囲の変化はコントロールできないが、自分はいかようにも変化ができる』ということです。
北条義時もビックリ?!人生を変えた3つの出来事とは?
北条義時が想定しえないような出来事が彼の人生を大きく変えていきます。北条義時の人生を変えた主な出来事は以下の3つです。
- 源頼朝と姉・政子が結婚
- 兄・宗時の戦死
- 源頼朝の急死
それぞれを解説します。
源頼朝と姉・政子が結婚
1177年頃、北条義時が14才の時に、彼の運命が大きく動き出します。それが源頼朝と姉・政子の結婚です。流人として伊豆に軟禁されていた源頼朝が、北条義時の姉である政子と恋仲になり、二人は結婚することになりました。
若干14才の北条義時にとっては、まったく自分ではコントロールできない出来事です。世は平家全盛期の時代となり、北条家も平家の支配下にありました。
にも関わらず、流人とは言え源氏の棟梁たる源頼朝と姉が結婚するなどという事態は、北条義時自身にはどうすることもできない出来事です。
そして、源頼朝と政子の結婚によって、北条家は源頼朝の配下となり、その後の平家打倒の挙兵に従うことになります。
こうして北条義時は、奇しくも『源頼朝という巨大なトレンド』に乗ることになってしまったのです。
もし、源頼朝と政子が恋仲にならなければ、北条義時は伊豆の地方豪族の次男として一生を終えていたはずです。そもそも源氏方になることも、鎌倉幕府に貢献することも、ましてや執権に上り詰めることもなかったでしょう。
兄・宗時の戦死
北条義時は姉・政子の結婚を機に、源頼朝の挙兵に従うことになります。しかし、挙兵して間もない石橋山の戦い(1180年)で、源頼朝は平家方を相手に大敗を喫してしまいます。
源氏方は散り散りになる無残な負けっぷりでした。源頼朝は命からがら伊豆から海を渡り、房総半島に落ち延びます。北条家も参戦していましたが、兄の宗時がこの戦いで戦死してしまいます。
もし、兄・宗時が生き延びていたら、北条家は兄の宗時が継いでいました。北条義時は次男であり、兄を支える立場としてずっと生きていったはずです。順当にいけば、第二代執権も宗時が父・時政から譲り受けていたかもしれません。
兄・宗時の死去により、北条義時の運命がまた大きく動き出します。北条家の嫡男となり、源頼朝の妻の実家を継ぐことになりました。この出来事により、北条義時は源頼朝の側近として生きていくことになります。
源頼朝の急死
時は流れて鎌倉幕府初代将軍となった源頼朝。圧倒的な存在感で天下を納めていましたが、1199年に53才という若さで急死してしまいます。
1192年に征夷大将軍になって、わずか7年目の出来事。幕府の体制も整い、将軍家の盤石を固める大事な時期でした。
源頼朝の急死により、鎌倉幕府は大きく揺らぎます。第二代将軍の源頼家はまだ18才。権謀術数渦巻く家臣たちを押さえつけるには、力も経験も足りていなかったようです。
もし、あと10年くらい源頼朝が生きていたら、頼家は28才。父からたくさんのことを学び、幕府の体制も盤石となり、源氏将軍の時代がずっと続いたのかもしれません。北条義時が幕府の実権を握ることはなかったでしょう。
源頼朝の死去をきっかけに、北条家は独裁体制を整えていくことになります。
それでも北条義時は変化に対応した
こんなに激しい変化の中でも、北条義時はその変化に自分を対応させていきました。
- 姉・政子の結婚により源頼朝の配下に
- 兄・宗時の死により北条家の嫡男に
- 源頼朝の死により北条家独裁体制へ
そして、最終的には第二代執権として、鎌倉幕府の最高権力者になっていったのです。
北条義時は『源頼朝というトレンド』に乗ってからというもの、荒波にもまれながらも人生を突き進んでいきます。もしも、時代のうねりに逆らうようなことをしていたら、立ちどころに北条家は滅んでいたかもしれません。
現代のビジネスも激しい変化にさらされています。そして、自分の力ではどうすることもできないことがたくさん起こることでしょう。
自分の考えを貫くことも大切ですが、北条義時のように『大きなトレンドの波に乗り、常に変化すること』も成功の秘訣なのかもしれません。
起業家が北条義時に見習うべき3つのポイント
起業家は変化に対応しながら、ビジネスを永続的に成長させていかなければなりません。必ずしも最終的なゴールが初めから見えているとは限らないでしょう。
北条義時もまた同じです。地方豪族の次男である自分が、最終的に鎌倉幕府の最高権力者になるとは夢にも思っていなかったはず。少なくとも、源頼朝が急死するまではイメージすらしていかなかったことでしょう。
そんな北条義時に見習うべき3つのポイントをご紹介します。
- クライアントの信頼を獲得する
- 過去の教訓を生かす
- 完成度を徹底的に高める
それぞれを解説します。
クライアントの信頼を獲得する
北条義時の主君は源頼朝でした。源頼朝の期待に応えることが北条義時の役割。仕事に例えれば、北条義時にとって源頼朝はクライアントです。
そんな北条義時に、源頼朝は信頼を寄せていたようです。北条義時は、1181年には源頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれます。この11人は「家子」と呼ばれ、源頼朝の親衛隊とも言えるメンバーでした。北条義時は「家子の専一」とされ、源頼朝の側近中の側近であったことが伺い知れます。
翌年には、源頼朝が浮気問題を起こし、北条氏一族が怒って伊豆に引き返してしまうという事態が起きます。しかし、北条義時は源頼朝のもとに残ります。
これはつまり、北条義時は一族よりも源頼朝を優先したということです。
源頼朝は、このことを喜び『きっと子孫を守ってくれる家臣になるだろう』と北条義時を賞賛しています。
また、1190年に源頼朝が右近衛大将拝賀のために上洛した際には、北条義時が随兵7人のうちに選ばれて供奉をしています。
北条義時はクライアント(源頼朝)の信頼を獲得できていたからこそ、常に源頼朝のそばに仕えることができたのです。
過去の教訓を生かす
父・北条時政は、第三代将軍の源実朝の頃に幕府の支配権を握っていました。徐々に将軍よりも目立つような振る舞いが多くなり、他の御家人の反感を受けてしまいます。最終的には、源実朝さえ暗殺しようとしたため、北条時政は失脚します。
こうした教訓が生かされ、北条義時が執権に就いた際には、将軍の補佐という建前を大切にします。実質的な支配者が北条氏であったとしても、あくまでも将軍あっての執権という立場を確立していきます。
また、平清盛も源頼朝においても、後白河法皇に何度となく翻弄されてきました。朝廷の力は大きく、北条義時も後鳥羽上皇による承久の乱によって、最大の窮地に陥っています。
そのため、北条義時は承久の乱のあと、朝廷や西国を見張る六波羅探題を設置しました。これにより、朝廷から実質的な政権は武家に移ることとなり、武家政権は明治維新まで続くことになります。
北条義時は、武家政権を確立するために必要な教訓を過去から学び、それを生かしていたものと思われます。
現代においても過去の教訓を生かし、同じ轍を踏まないようにすることは大切です。失敗を恐れずに行動するとともに、過去にあった教訓を知り、それを生かしていきましょう。
完成度を徹底的に高める
北条義時は父・北条時政を隠居させ、第二代執権となります。姉・政子とともに実質的な鎌倉幕府の主導権を握りました。
しかし、まだ不安要素は残っています。北条義時は政所別当という政治面でのトップではありましたが、侍所別当という軍事面でのトップは和田義盛が握っていたからです。
北条家の安定を考えれば、軍事面の実権を握っておきたいところ。そのため、和田義盛を滅ぼし侍所別当を兼務するに至ります。
また、第三代将軍の源実朝が暗殺された際には、次の将軍を公家の藤原家から迎えています。頼りになる将軍を迎えるというよりは、北条氏が実権を握り続けられるような将軍を据えました。
北条家の安定と繁栄のために、北条義時は徹底的に北条家独裁体制の完成度を高めたのです。
仕事の完成度を高めるという点では、現代にも通じるところです。妥協したり、中途半端なところで満足したりせず、北条義時のように完成度を徹底的に高めていけると良いと思います。
激しすぎる変化と北条義時
北条義時の前半の人生は、彼が壮大な野望を持っていたわけではなく、源頼朝の下で成り行きに身を任せるしかありませんでした。
しかし、北条義時の人生が後半になると、あまりにも突然に源頼朝が亡くなってしまい、それをきっかけに『鎌倉殿の13人』による権力闘争に巻き込まれていきます。
とはいえ、しばらくは父・時政が権力を握っていて、敵対勢力を排除していきます。比企能員、畠山重忠という有力御家人が父・時政によって滅ぼされました。北条義時が実権を握る頃には、めぼしい敵はほとんど残っていませんでした。
最後の決戦である承久の乱では、姉・政子の演説と大江広元の電撃作戦が奏功し、鎌倉勢の圧勝で終わります。ところが、実際に京に攻め込んだのは息子の泰時で、肝心の北条義時は鎌倉で留守番。しかも、朝廷に弓を引いたことを気にかけて、近くに落ちた雷に恐れ慄いていたというエピソードも。
このように見ていくと、北条義時の人生は『成り行き任せ?』な気もしてきます。初めから野心を持っていたわけでもなく、常に自らの手で運命を切り開いたようには思えないからです。
一方で北条義時は、父・時政を失脚させたり、侍所別当の和田義盛を滅ぼしたりして、名実ともに鎌倉幕府の最高権力者に上り詰めます。承久の乱では、後鳥羽上皇を島流しにし、武家政権を決定的なものにしました。敵対勢力には情け容赦のない一面もあり、このあたりがドラマでどう描かれるのかも楽しみにしたいところ。
北条義時は、大局的な流れには身を任せつつも、変化を機敏に感じていたのかもしれません。激しすぎる時代の波の中で、巧みに自分を変化させていったからこそ、北条義時は最後まで生き残れたのだと思います。
まとめ 北条義時とは?
今回は、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で話題の北条義時について解説しました。
北条義時は劇的な変化の連続にさらされた人生でした。
人生のスタートは地方豪族の次男に過ぎないのに、源頼朝と姉・政子が結婚したことで平家打倒の挙兵に従うことになりました。
そこから激しい時代の変化の波に飲み込まれつつ、ついには鎌倉幕府の最高権力者に上り詰めます。その人生には、他にも学ぶべき教訓がたくさんありそうです。
現代のビジネスも変化の激しさが増してきています。起業家の方は、北条義時が生き残れた秘密を、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から学んでみてはいかがでしょうか?
(編集:創業手帳編集部)